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『遺書』

 先日、大学の先輩が亡くなった。

 私は30年ほど前に東京の東急ホテルを辞め名古屋に帰ってきた。家業を手伝うためである。

 私の名古屋での生活は苦痛を伴って始まった。というのは、その時私の心はすでに名古屋人ではなく東京人になっていたからだ。

 名古屋に帰ってきて、私の周りは当然ながら名古屋人ばかりであった。従業員やお客様は名古屋人が多い。外の世界でも所属していた法人会は名古屋人ばかりで気性が全く合わなかった。東京から戻ってきた私には名古屋人はまさに異星人であったのだ。名古屋人は基本的に嫌味と皮肉の多い人種である。ある種のいじめ気質があると感じる。夏クソ暑く、冬クソ寒い気候が原因かと思ったが、しかし田舎へ行けば行くほど大抵このようなものなのだと最近わかった。

 東京は違う。東京は『人種のるつぼ』といい、東京とは多様な田舎者で形成されている多人種国家なのだ。様々な性質の人種が存在し、それゆえに東京人は調和を重んじる傾向がある。違う土地の人間同士が生きていくためには調和を大切にする心が自然と身につくということなのだろう。

 さてそんな失意の折、お客様の中で明治大学のOBがいて、私を若手OBが集まる会に紹介してくれた。紫水会という。明治大学の諸先輩方は落ち込んでいる私にとても優しく接してくれた。特に懇意にしていただいたのが先日お亡くなりになった先輩であった。4歳上の先輩はとても明るい方で、その会で最年少だった私にいつも温かい声をかけてくれた。以来30年、公私共にずっと仲良くしていただいていたのだ。

 その先輩が悲しくも早世した。

 私は重い心を引きずりつつ葬儀場を訪れた。会場に入るととても驚いた。軽音楽がガンガン流れているのだ。亡くなった先輩はとても楽しい方で音楽も愛してたから、好きな音楽で送ろうということなんだと何気なく思っていたが、奥に進みさらに驚いたのはその音楽はギターの生演奏で、家族親族が皆肩を組んで踊っていたのだ。笑いながら泣きながら……。なるほど家族の絆とはこういうものなのかと、家族の絆が至極希薄だった私は泣いた。

 もし私が死んだらどんな葬式になるのか。死期が近づいていて予め自分の葬式に注文をつけることができれば良いが、突然死んでしまったらそうはいかない。

 名誉唎酒師の私が死ねば当然通夜には日本酒を出すだろう。ただし、妻は私をただの酒好きとしか思っていないのでコンビニでパック酒でも買って供えそうだが、それは私の日本酒講座受講者が許さないだろうな。彼らはとりあえず秋貞商店に走って行って志太泉を買って、勝手に燗酒にして呑むであろう。温度がどーのこーのとか言いながらね。

 名誉唎酒師だからって『日本酒を体にかけてあげよう』とか言い出すかもしれない。しかしながら知っている人はわかると思うが私は日本酒はあまり呑まないんだよね。日本酒講座の方には大変失礼ながら、実は私はシャンパンを最も愛している。もしも万が一家族がそれを知っていても、よいシャンパンをかけてくれるとは思えないし、それどころかカヴァや安いスパークリングなんかかけられそうで嫌だな(いや、カヴァは別に嫌いではない)。シャンメリーなんかかけやがったら化けて出てやる。

 シャンパンの知識はまだまだ一般に浸透していなくて、発泡性ワインの事をすべてシャンパンまたはシャンペンと呼ぶ人がいる。シャンパンはシャンパーニュ地方でシャンパーニュ製法(瓶内二次発酵)によって造られたもののみをシャンパンと呼ぶという法律があり、総じて他の発泡性ワインより高価なものが多い。発泡性ワインの総称はスパークリングワインであり、その中にシャンパンやクレマン(フランス)、カヴァ(スペイン)、スプマンテ(プロセッコ、フランチャコルタ等:イタリア)、ゼクト(ドイツ)などが含まれるのだ。

 私がシャンパンにこだわる理由は圧倒的なエレガントさにある。圧搾時に最初のジュースを使わないということが一つの要因である。最初のジュースは香りや味が濃すぎて、『料理とともに存在する』というシャンパーニュの定義とは違うものになってしまうからである。

 細かい事だが『シャンパーニュ』というのが正式名称で『シャンペン』は英語、『シャンパン』は日本語である。

 家族には言えないのでここに遺書を残しておく。

 私が死んだらRM(レコルタン・マニピュラン:葡萄栽培からワイン醸造まで一貫して行うドメーヌ)なら帝王ジャック・セロスを用意しろ……とまでは言わないが、もう今はないアラン・ロベールのメニル・トラディションが在庫で手に入れば最高である。NM(ネゴシアン・マニピュラン)ならサロンかテタンジェ・コント・ド・シャンパーニュ、またはボランジェRDが嬉しい。クリュッグは基本的にあまり好きではないがクロ・デュ・メニルなら我慢しよう。クリスタルは高いシャンパンだがあまり好きではない。安いものなら母親との思い出のアンリオか、スタンダードに好きなマムがいいかな。

 どうせ家族はシャンパーニュに対してあまり知識はないだろうから、今池のリカーマウンテンの鍵がかかっているガラスケースから適当に2万円以上のロゼではないシャンパーニュを一本買ってくれてもいい。適度に冷やして静かに抜栓し、ロブマイヤーのバレリーナチューリップトールかパトリシアンに注いで私の口元にかけてほしい。

 お花は長らく花粉症だったのでいらない。

 お坊さんにはいい思い出がないので呼ばなくて良い。

 そして、骨は草津温泉か別府温泉の迷惑にならないところに撒いてくれ。

 そうそう、妻に一つお願いしておくが、いくら私が酒ズキとはいえ、戒名に『酒』の文字だけは入れないで欲しい。まさか『シャンパン居士』などとは入れないと思うが。

合掌。

ジャック・セロス

 

アラン・ロベール

サロン

テタンジェ・コントドシャンパーニュ

アンリオ


クリュッグ・クロ・デュ・メニル

クリスタル

マム

ロブマイヤー・バレリーナ

ロブマイヤー・パトリシアン


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コメント: 4
  • #1

    柏木 (水曜日, 21 12月 2022 23:36)

    了解です。私の方が残ったらね。

  • #2

    まるお (木曜日, 22 12月 2022 05:19)

    柏木先輩。どうみても、私のほうが先に行きそうです。

  • #3

    佐田昌久 (木曜日, 22 12月 2022 12:52)

    ないと思うがあんたがさきならボランジェのPinをくちびるに わたしの最後の酒は自宅のセラーの封筒内の魚形の醤油差しに用意された生きている間飲まないときめたロマコンを火葬前にしますとしました あなたとのんだ69のポールロジェを回想しました

  • #4

    まるお (木曜日, 22 12月 2022 14:45)

    69のポルロジェええすね