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『涙のインド料理-まるお恋物語-』

 東京の銀座東急ホテルに勤務していたまるおは、27才で東京を離れ故郷の名古屋に戻ることになった。名古屋では家業の寿司店が大規模の別館建設を進めており、親戚やお客は「お前の親父がお前のために新しい店を造っている」と言った。しかし、私はそんな話は聞いていないし、正直帰りたくはなかった。私は東京が心底好きだったし、仕事もノリノリで上手くやっていた。だが無情にも帰郷命令は下る。役員待遇と高給を餌にまんまと釣られてしまったのだ。30年経った今も後悔している。

 私は、残り少ない東京生活を今まで気になっていた女性と食事に行くことに決めた。ホテル時代はずっと仕事中心の生活で真面目に取り組んでいたから恋愛に対してあまり積極的ではなかったのだ。

 同期の女の子にK田ちゃんという可愛い子がいた。彼女はフロント勤務で、とても優しくて、声が愛らしくて、聡明な女性だったけど、ちょっと天然(ボケ)だった。そして、私は彼女が大好きだった。しかし彼女には大学時代から付き合っている彼氏がいて、臆病な私は告白することはできなかったが、冗談を言い合うなど普通に仲良くしていた。

 私は彼女に最初で最後のデートを申し込んだ。私の部署は『宴会オフィス』、彼女は『フロント』で、働く場所も違えば、勤務シフトも全く違う。あらかじめ予定を合わせることができなかったので、たまたま勤務シフトが合ったその日にデートを申し込んだ。彼女は意外にも喜んでOKしてくれた。突然の誘いだったためレストランは予約していない。しかも銀座の夜は嫌になるほど満席の店ばかりで、仕方なく空いていたインド料理屋に滑り込んだ。私は辛いものが苦手なので、特別美味しいという触れ込みがない限りインド料理屋、タイ料理屋、韓国料理屋、四川料理屋には行かない。

 辛い料理はまず飲み物に困る。1990年代頃にエスニック料理ブームがあった。エスニックとは本来、『民族特有の』『民族的な』『異国の』『風変わりな』という意味の形容詞であるのだが、日本で『エスニック料理』という場合は、インドネシア・タイなど東南アジアの料理や、インド・西アジア・中近東・アフリカ、さらにはブラジルなどの中南米といった地域の特に辛い料理をさすことが多い。で、寂しいことにそういう地域の酒文化は極めて乏しい。第一、イスラム教で酒を呑まない地域もあり、日本で営業していても酒を出さない店もある。トルコなど、酒にうるさくないイスラム教国もあるが、RAKI(ラキ、ラク)のような蒸留酒がある程度である。東南アジアは、ほとんどがビール文化で、それはそれで美味しいが、次に飲むものがなく、仕方なく米から作った蒸留酒を呑む。

 そもそも辛い料理には、醸造酒は合いづらく、ビールの次はあまり選択肢のない蒸留酒を呑むことになるので、酒呑みの私はいささか不機嫌になる。時々ワインが豊富に置いてある店もあるが、はたしてワインとエスニックはマリアージュするのだろうか?

 イギリスの世界的ワイン評論家のヒュー・ジョンソン氏は、エスニック料理にワインを選ぶ場合、2パターンを提唱している。第一は辛みを消すためのワイン。第二には辛みをより増長させるためのワイン。

 レモングラス、ココナッツミルク、生姜などで風味をつけたようなタイ料理には、ドイツ・リースリングのシュペトレーゼ、ゲヴュルツトラミネール、酸味の多いソーヴィニヨンブラン。ココナッツ風味のカレーには、オーストラリア・ハンター・ヴァレーのシャルドネ、口をすっきりさせたければ、アルザスのピノブラン。サテという鶏肉や羊肉の串焼きに、香辛料のきいたタレをつけて食べるインドネシアあたりの料理には、オーストラリア・マクラレン・ヴェイルのシラーズ、アルザスかニュージーランドのゲヴュルツトラミネール。

 カレー料理には、充分に冷やした半甘口の白、オルヴィエートのアッボカート、カリフォルニアのシュナン・ブラン、スロヴェニアのトラミーナー、インドの発泡性ワイン。逆に辛みを強調させたいのなら、タンニンの多いバローロやバルバレスコ、深みのあるフレーバーを持った赤(サンテミリオン、コルナス、シラーズとカベルネのブレンド、ヴァルポリチェッラのアマローネ)。タンドーリ・チキンには、ソーヴィニヨン・ブランかボルドーの若い赤。

 中東のケバブには、力強い赤、ギリシャのネメアかナウーサ、トルコのブズバー、チリのカベルネ・ソーヴィニヨン、カリフォルニア・ジンファンデル、オーストラリア・バロッサ・ヴァレーのシラーズ。ちなみにエスニックではないが、中国の四川料理には、ミュスカデ、アルザスのピノブラン、冷たいビールを選んでいる。

 私ならエスニックには焼酎も合うのではないかと思っている。焼酎の起源は正確には分かっていないが、比較的有力な説は、シャム(現在のタイ王国)から琉球経由でもたらされたとするものであるし、芋焼酎の香気成分は、ゲヴュルツトラミネールと同じマスカット系のモノテルペンアルコールだからである。だから、芋焼酎にはライチの香りがある。

 ということで、あまりインド料理は乗り気ではなかったのだが、そこしか空いてなかったから仕方なく彼女と入り込んだ。何種かのカレーとナンがセットになっているものを頼んだが、緊張のせいなのか、本来インド料理がそういうものなのか、カレーはぬるいし、色は少しずつ違うけどあまり味の変わらないカレーをチマチマと食べた。『K田ちゃんとのデートだったらもっと良い料理店に行きたかったな』とつくづく後悔した。

 東京を去る最後に彼女に告白するという選択肢はすでに私にはなく、お互いに彼氏彼女がいて、結婚も考えているからもう一生会えないだろうというようなありもしない話をしていたと思う。つまらない作り話で恋心を断ち切ろうとしていたのだった。彼女は食事中ずっと寂しそうな微笑みで私の話に耳を傾けていた。

 彼女と食事を終え、銀座の地下鉄の入り口で分かれるとき、彼女はなかなか帰ろうとしない。私は彼女に『本当は君が好きだ。結婚なんて嘘だ』と抱きしめてそう言いたかったが、ただ距離を置いてしばらく見つめ合ったあと、彼女は黙って涙を浮かべて「さようなら」と言った。

インド料理

トルコの酒・ラク

ラオパサ・サテ

スコンター・トムヤムクン

ラオパサ・海南鶏飯

 


タクシム・ケバブ

スコンター・カオニャオ

ベトナムのビール

トルコ料理・フムス

韓国料理・ケジャン


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コメント: 2
  • #1

    fwpe 6325 (日曜日, 20 6月 2021 10:39)

    いい話なのか。ずるい男の人の話なのか。受け取り方はさまざま。
    でも、そこを除けばカレー食べたくなったけど。

  • #2

    まるお (日曜日, 20 6月 2021 14:52)

    ずるいところは今でも変わりませんねぇ……